深くて届かない海の中。
光の灯ったクラゲが、一つ、ひとつと消えていく。
「お客さーん、閉店ですよぉー」
窓際に一列に埋め込まれたライトと、それに反射した水明かりだけが、薄く室内を照らしている。部屋の右側、カウンター席となっている入り口付近で、一人の少年が壁にもたれかかるようにして寝ている。
「困りましたね、こんなところでうずくまられて」
「っていうかサバちゃんは客なの?」
「注文いただいているからにはお客様ですよ。正直そろそろリストに加えたい方ですが」
「魔法でもねーのに毎度こんなスコンと寝ておもしれ〜」
「フロイド、駄目ですよ。デュースさんだって頑張っているんですし」
そう兄弟を嗜める声もどこか笑みを含んでいる。所詮、閉店前のただの戯れだ。獲物を取り囲んで三人が三人、持て余した時間を磨り潰すように好き勝手ぺちゃくちゃと話している。ついでに使える材料がないか目を光らせつつ。
机に広げられていたノート達を箒で掃くように腕で詰め込んで表に回る。
「すみません、上がります」
「あはっ、小エビちゃん大変だねぇ」
「足が引きずられていますよ。手を貸しましょうか?」
「大丈夫です」
デュースを右に担ぎ、左手で手摺を掴みながら階段を降りる。ほんの二、三段だがこちらも照明が落ちているので踏み外さないようにしなければならない。
「さん」
店の主人が呼び止める。三人の中では比較的背の低い男。柔らかそうなウェーブを描いた前髪と、慇懃でインテリジェンスな印象の銀縁眼鏡。
「困ったことがあったらいつでも言ってくださいね」
海のように底の知れない顔で笑っている。
いつ足を掬えないかと冷たい眼光を目蓋に隠して。
「ありがとうございます」
「ん……」
意識の浮上したデュースがゆっくりと辺りを見回す。まだ半分夢の中にいるのか、首の動きがやたらとふわふわとしている。
「デュース」
「うおっ」
驚いて身を引いたタイミングで掴んでいた腕を離す。ポケットから携帯を取り出して、ライトで周囲を照らしてやる。薄い膜越しに石でできた巨大なタコの足や、大きな海藻が見える。背中の向こうには巻貝を模した寮が佇んでいる。そこから出口へと続く海獣の骨までの一本道は月光で白く浮かびあがっていて、この暗さの中でもそこだけは道に迷うこともないのだが、通っている内にラウンジから出口まで斜めに泳ぐという横着が出た。オクタヴィネルは海の中にあるが、鰓呼吸のできない人間は自然と大きなシャボン玉のようなものに包まれるので、濡れることも息で苦しむこともない。
状況を理解したデュースが顔を覆ってしゃがみ込む。
「またやってしまった……」
落ち込んでいる彼の肩を軽く叩いて荷物を渡す。離れたことにより大きな泡が二つになる。
「なぁ、」
「うん?」
「エースと、何かあったのか?」
なんで、
急に
そんなことを聞くんだろう。
「上手く言えないけど、なんか……変だ」
「そう?」
ここが夜の海で本当によかった。今どんな顔をしていようと誰にも見えない。引き攣ってしまう目も口も、息苦しいまでの喉の渇きも、体の奥から痺れのように伝わる震えも。なかったなかった何もなかった。あの日私は私達は普通にレポートを作って過ごしただけだ。急激に頭の中でぶり返ってくる手触りを声を痛みを視界を音を衝撃を感覚も感触も五感も何もかも全部何度も何度も何度も塗り潰して。黒いペンキで繰り返し。何度も。何度も。重ねて。分厚く。壁になって。蓋をして。思い出さないように。
「なんにもないよ」
「本当か?」
「うん、大丈夫」
「……やっぱり何かあったんじゃないか」
「大丈夫だって」
「何があったんだ」
「しつこいな、大丈夫だって言ってるじゃん」
「駄目だ、やっぱりお前なんか変だ」
「別に問題なくできてるよ」
「問題ある」
「どこに」
「僕が迷惑だ」
「うわっまぶし」
「あ、悪い」
「急に振り向くなよ」文句を言いながらもデュースは携帯を下げてくれる。気遣わしげで頑固で、それが美点でもあるけれど、変な知恵まで身につけてしまったようでやりづらい。悪意に鈍くて、気付いたとしても力でどうにかできてしまって、だからこそ使い方なんてろくに知らない、素直で愚鈍なところが好ましかったのに。
「何があったんだ?」
「…………」
「……わかった。じゃあ、せめて、元に戻れないのか……?」
「もとに……」
そんなこと考えたこともなかった。
戻れるのか。戻っていいのか。日中のように、学校のように、普通に話して、普通に接して。するりと触れる指の感触、耳を震わす振動、駄目だ、目を見るのが恐い。顔をまともに合わせられない。二人きりになるのが恐い。
「どう、やったら……、いいだろう……」
元に戻るなんて、とてもじゃないができる気がしない。
「うーん、」
「あ、ごめん。聞いてばっかで」
「あ、いや……、とりあえず外に出よう」
顔をあげると前にいたデュースが平たい岩場を示す。私の方が前にいたのに、いつの間にか彼の方が先に進んでいる。
寮と海獣の骨のあいなか、大きな岩の階段。そのちょうど中間、上からも下からも四段目に当たる場所で魔法をかけると、空中に月とは違う輝度の強い光が現れる。
「拳だと多分負けるよな……」
おそらく聞かせるつもりでなかった言葉が、いつものデュースで安心した。
一瞬の眩しさに包まれた後、触れてはないのに肌に感じていた重みと抵抗感がなくなり、扉ほどの大きさのある鏡の前に立っている。
「考えたんだが」
「うん」
「勉強会はどうだろう」
「デュース……」
しどろもどろに「いや、ほら、一緒にレポートしたり、寮に泊まったりしたら、仲直り……、できるんじゃないか……?」と提案しているデュースを見ていると固くなっていた肩から力が抜けていく。
「じゃあ……、してみよっか。勉強会」
「いいのか?」
「うん。乗らなかったら乗らなかったで、二人ですればいいし」
それにあれ以降、こちらが不要な接触を避けているのも事実だが、エースから必要以上の接触や脅迫を仕掛けてくる様子もない。デュースの態度から見るに、おかしいのは私だけで、向こうはごく普通に振る舞えているのだろう。
普通に。
自然に。
平坦に。
笑えて、何も怒らなくてよくて、何にも怯えなくてよくて。
ただの友達同士でいられるなら。
それが一番望ましい。
「今回だけじゃ無理かもしれないけど、私も元に戻れるなら戻りたい」
「そっか」
「うん」
「じゃあ、また明日」
「うん、おやすみ」
だから、デュースの気遣いには感謝した。
「……全然駄目だ」
月明かりが気になって眠れない。
枕にしていたクッションを顔に持ってきて息を吐く。
「────……」
…………全然駄目だった。
視界は真っ暗になったが結局頭上の存在が気になってしまう。ずっと頭のてっぺんを引っ張られているような緊張感。カーテン越しでも差し込んでくる月光の下、ソファに横たわった大きな影は規則正しく静かに上下に動いている。机の上のグリムも暖炉の傍のデュースもそれは同じで、立てている吐息は穏やかだ。
なるべく音を立てないよう上体を起こし、爪先から吸いつけるように足をつく。床で寝ている一人には悪いが、そろそろ横の階段を登っていった。
二階へ上がってようやく一息つける。手に当たる縦枠とポツポツと見えるランプを頼りに、壁伝いに廊下を歩く。オンボロ寮のことは気に入っているが、一人の城と満喫するには広過ぎて、夜に歩くのはいつまで経っても慣れない。せめてゴースト達がいてくれたら気も紛れるのに、最近とんと姿を見ない。どうしたんだろう。とうとう成仏してしまったのだろうか。
「……あった」
三つ目の灯りのあと、馴染みのあるドアノブの手触りがして心底安堵した。
これでひとまず安心だ。大丈夫だ。あとは中に入って棚なりなんなりで扉を塞げばいい。前は簡単に解かれてしまったから、もっと頑丈に。もしかしたら音で起きてきてしまうかもしれないけど、籠城さえできてしまえばこっちのものだ。
──────そこまで考えて、
もう一度、そう思った頃には中から伸びた手に引き摺り込まれていた。
「っ、」
壁になってしまったドアに押しつけられたと同時に鼻の下に湿り気を感じる。固まっている間に今度は顎の辺りを柔く噛まれた。漏れた吐息が笑っている。やろう、遊んでやがる。
耳の縁を撫でられて、後頭部に手が回る。肩を押して距離を取ろうとしたらすぐに横に縫い付けられた。
「やっ、」
後ろの言葉を言う前に奥に舌を入れられて上の歯列をなぞられてゾワゾワする。無遠慮に動く舌はそのまま下に回って、裏の付け根もなぶっていく。
「んぶ、んぅ、んっ」
弱いところにひたすら与えられる刺激と息もろくに吸えない状況に、少しずつ、すこしずつ、思考に靄がけぶってくる。
逃げなきゃ。
逃げなきゃ、
手首を押さえていた手が頭と背中に回ったのをいいことにドアノブまで腕を伸ばす。手の縁に冷たい金属の丸みが当たるがそれを回す前に舌を噛まれた。同時にガチャリと音がして、慌てて指を下に伸ばすと、待っていた手に絡め取られる。
舌を吸われて大きな音が響いて恥ずかしい。早く開けなきゃと思うのに、鍵に触れては離れ、回したと思えばすぐに次の施錠音がする。細い指先は子猫がじゃれつくように小さく何度も引っ掻いてくる。
やがて遊びに飽きた手が、手首をもう一度捕まえ直して、扉へ押さえつけた。
「は、」
最後に下唇を食んだあと、ようやく口が離れる。
「ほんっっっとデュースには甘いよなー。そんな可愛い? なぁ、」
それとも、揶揄の声が息を吹き込むように耳をくすぐる。
「期待してた?」
「……え?」
睦言のように言われた言葉に対してでなく、突如軽くなった背中に対して声が出た。エースを見ても似たような間抜けな声を出して崩れていて、体が傾き、頭に衝撃、「ッデェ!!」と野太い声、まとめてドタドタと倒れていった。
「だ、いじょ……ぶ?」
全身打撲の痛みはいくらかあるが、想定していたほどは強くない。顔を上げるとクッション代わりに潰してしまったデュースが鼻を押さえて呻いている。
「っこんな夜中に何してるんだ?」
「え〜? 何だと思 っでぇ!! おまえ今のはマジで死ぬからな!?」
「死ね、いっそ死ね馬鹿野郎!!」
「え? え?」
下顎に掌底を入れたが舌を噛まなかった。続けて二度三度繰り出すが逃げられる。
「お前ら、付き合って……る、のか?」
「そーそー、そういう」
「っ違う絶対にちが、」
否定の言葉はエースの手によって塞がれる。四度目を出そうとした右手もデュースに気を取られてる間に絡め取られてしまった。
「あんまり騒ぐとグリムまで起きだすぞ〜、カントクセ〜さん」
暗い部屋の中でも月明かりのせいで、にやにやと曲がる目と口端がよく見える。掴まれていない左手と胴体でなんとか抜けられないか試みるが、腹に跨られていてびくともしない。
「で、デュース、どうする?」
持ち上げた右手の甲に口付けながらエースが言う。
「見ての通り別に恋仲じゃなくて強姦なんだけど、お前も混ざる?」
もう片方の手が胸を上からなぞって。
嫌だ。
「先輩とか他の奴らなら、ぜってぇ、させねぇけど。お前なら一緒でもいいよ」
いやだ。
記憶が内側からドアを叩いている。
「優等生らしく監督生を助ける? それともこの服引き裂いてめちゃくちゃに犯す?」
壁に罅が入って、撫で回している腕は引っ張っても退かなくて。
いやだ嫌だいやだ。
「ボロボロに泣かして、グズグズに溶かして、許してって乞われても、もうやだって懇願されても離してやらないくらいドロドロにして、俺らと一緒に遊ぶ?」
親指が胸の先をかすって身が竦む。やだやだやだ、デュースの前で感じたくない。せっかく知らなかったのに普通だったのに友達だったのに。
殻が割れて、閉じていたものが隙間から小さく吹き出してきて。やだやだやだやだ見たくない知りたくない聞きたくない。これなら二人きりの方がまだマシだった。
「今日も可愛かったなー、前のこと思い出してた? 目めっちゃ逸らすし顔伏せてたけど耳赤かったし。自分で追い込んで自滅してるの相当間抜け。なんでわざわざ呼んだの」
思い出したくない思い出したくない忘れてお願いやめて止まって嫌なの。穴から溢れてきた記憶がとまらなくて濁流のように飲まれていく。息が苦しい。嫌だいやだいやだ思い出したくない。蓋をしたのに。普通になりにきたのに、なりたかったのに。
エースが目尻をなぞって目を合わせられて、笑っているのに蛇に睨まれたみたいに固まって逸らせない。
「ほーんと、バカだな」
柔らかなまなじりで、恍惚として、甘ったるくて。
逃げなきゃ、逃げなきゃ。もう押し倒されてるけど、お腹の上に乗られているけど、どうにかしてのけてしまわなきゃ。
こわいよだれか誰かだれかたすけて、痛いのはいや、気持ちいいのはいや、恥ずかしいのもいや、だれか、誰か。
誰か?
だれに?
どうやって?
後ろにも人がいることを改めて意識してしまって硬くなる。
恐い。
振り向くのが恐い。
助けを求めていいのか? 助けてくれるのか? 本当に頼っていいのか? でも言わないと、友達だから、いわない、と、
「でゅ、……た、す……」
自信がなくて、人を信じられなくて、これから起こることが恐くて掠れた声しか出せない。
「…………お前は、前もしたのか?」
「そ、お前がグリムくん引き取ってくれてる間にな。すげー可愛かったよ」
遊ぶ程度だった手付きが本気でまさぐる動きに変わる。暴れると「もう無理だろ」といつもとあまりにも変わらない調子で笑い飛ばされた。
「分かった、混ざる」
ずっと座りっぱなしだったデュースが起き上がる。
脇の下に腕を通されて、持ち上げられて、中へ入って、扉が閉まって。
「ぁ……」
部屋の鍵が今度こそ、しっかりとかけられた。